若栗城に伝わる悲話、女のさむらい大将の奮戦
若栗城というお城を知っとられますか?これは南北朝時代~戦国時代、今の黒部市若栗地区に実在したお城ながです。地元の人から「たちのしろ」と呼ばれるこの城は平地の城跡であり、高さ5m前後、幅10~20m、長さは東西に約90m、南北には約70mのコの字形の土塁とお堀の跡を残すだけながです。けれど、水田の中にこんもりと木を茂らせ、遠くからでもよく目に付くがですよ!
若栗城にまだ主があった頃、この地域は越後の長尾為景・上杉謙信らが西に遠征した際の「通り道」であったために何度も攻められ、その都度、村々は荒らされとったと推測されとります。その戦いの中に、若栗城城主・不悪凡済右京輔(ふあくぼんさいうきょうのすけ)の息女にまつわる勇壮奮闘な悲しいお話がありました。
『ある年のこと、上杉謙信は若栗城を攻めたてたが一向に落ちる気配がない。どうした事かと思い目をやると、女のさむらい大将が指揮をとり、飛んでくる矢を竹筒で集めては打ち返している!これを知った上杉勢は攻撃の手を更に強め、ついには女のさむらい大将は討ち死に、やがて城も落ちた。』
城北には鑓分(やりわけ)という地があるがですけど、攻め入った上杉勢を向かえ討ったのがこの辺りだったとして、基盤整備事業前の地名として残っとったがです。また、数年前には剣舞会の方々がこの悲話に基づいた作品を創作し、詩吟に合わせた剣舞を若栗城跡で披露されました。このお話は、今もこの地と人々の記憶に深く浸透しとるがです。
今昔変わらず地元の人々に守られるお城
秋のお彼岸の頃、若栗城跡の土塁には息女達の無念を慰め弔うように、真っ赤な彼岸花が静かに咲きます。また、春には武士の精神の象徴と言われる桜が咲き誇り、戦いで散っていった者達がこの地を見守っているようながです。
いずれも美しいまま保たれているのは、地元の人達の努力の賜物。彼岸花は7年前から毎年に渡り球根から植えています。城跡のあちこちに生える草を取り、泥から出た砂利も整理し…形は違えど、この地はやはり地元の方々の力によって守られとるがですね!!
長谷川さんのお話によると、子供の頃、土塁は東の山方向に延びて、今の倍はあったとか。また、古老から聞いた話によると、現存する土塁の外側にもうひと囲みの土塁があり、北側には今より幅の広い高橋川が流れていて、天然の防塁を果たし、内堀もあったと聞いとられるそうです。「いま残っている城跡は、かつての4分の1くらい」と言われるほど、二重三重に防備された大きなお城やったと伝えられています。
お屋敷や石畳の道だったであろう土塁の内側は、現在は広場になっとるがですけど、北側の土塁の上には今も小さな神社が残されており、南側には鳥居もあるがです。菅原道真公を祭る中村天満宮です。「大宰府や京都に行かなくても、地元で道真公にお参りすることができる」と長谷川さん。以前は風が吹くと縄を掛けなければならないほど古くなっとりましたが、平成24年に地元の人達の尽力により再建されたがです。古い社を残すため、社の外側を新しい社で包む形にしてあるそう。ここでも地元の人達の力が光っとるがです!!
最新の駅から歴史ある若栗を巡る
若栗城跡から北に約500mのところに長安寺館があります。ここにもお寺の境内をコの字に囲むように、高さ3m程の土塁や山門が残されとり、詳細は不明ながですけど、かつては若栗城と深い関係があったと想像できるがです。また、南東約700mのところには若埜(わかの)神社があり、その昔、秋祭りには大筒から各市町ごとの花火が上げられとったらしいです。2000年国体の年に揚げられた大旗も、北陸新幹線の開業を記念して揚げられる予定。そう、来春には北陸新幹線が開業し、若栗には新しいシンボル・黒部宇奈月温泉駅がお目見えするがです!!
その駅を起点に、若埜神社、「寝てなる柿」の善念寺館、長安寺館、若栗城跡、そして以前ご紹介した「北陸の銀閣寺」こと天真寺松桜閣(しょうおうかく)を巡るルートで、のどかな田園風景の中ゆっくりと、遠き日に想いを馳せながら若栗散策してみたってください♪
●北陸自動車道黒部ICから…車で約2分、徒歩で約10分
●黒部宇奈月温泉駅から…車で約3分、徒歩で約15分
(2014年11月4日)