富山 黒部の観光情報サイト「黒部藩」

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富山・黒部・宇奈月・魚津・入善・朝日の観光 旅の見所

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歴史ロマンあふれる越中最大級の山城 松倉城跡(県指定史跡)

難攻不落の城

松倉城址から魚津を望む

魚津市は古くから漁業、商業の町として栄えてきました。南北朝時代から戦国時代にかけて越中(富山県)東部の軍事の要所として、多くの城や砦が築かれたがですよ。
魚津市南部の城山にある松倉城跡は、県内最大級の山城。山全体が城郭で、南北に約1キロメートル、ふもとの城下町から山頂の本丸までの標高差が350メートルと巨大なスケールやったがです。標高430メートルの山頂からの展望は良く、新川地区が一望でき、晴れた日には能登半島まで望めるがです。海岸沿いの「浜の道」に対して「山の道」があり、城を築くのに両方の道を監視することができるこの山が適しとったがですね。山の三方は急斜面に囲まれた天然の要塞で、難攻不落の城として知られていました。この城を巡り、戦国時代末期までの約250年間、多くの武将が争っとったがです。

市姫:すばらしい眺めながです~☆

黒部太陽の守:城にはもってこいの立地じゃな!250年もの長い間、様々な歴史が刻まれてきたのじゃのう...

越中東部の拠点

松倉城の歴史は古く、南北朝時代初期の14世紀前半には存在が確認されとります。越中守護がたてこもるお城として越中でも有数なお城だったようで、山のふもとの鹿熊集落には城下町もあったがです。新川郡守護代を務めた椎名氏が居城したころには、越中東部の政治・軍事の中心として栄えたがです!さらに、室町時代から江戸時代にかけては、後方にある松倉金山で金の採掘が盛んに行われ、松倉城に大きな経済力をもたらしたがです。
戦国時代に入ると、新川郡守護代の役職は、椎名氏から越後の長尾氏(上杉氏)に移ります。椎名氏は上杉方に組み込まれる形になったがですけど、実質的には上杉氏の後ろ盾をもらった椎名氏が治めとりました。ところが上杉方だった椎名氏が、上杉氏の宿敵である武田方へ寝返ったため、上杉方から攻撃されます。軍神といわれた上杉謙信の猛攻により松倉城は落城。100年以上に亘った椎名氏の支配が終わったがです。これにより、上杉氏にとって松倉城は、織田方の大名や、加賀・越中で巨大な勢力になった一向一揆を抑えるためにも、越中東部における最重要拠点になったがです。

松倉城址

激動の時代を超えてきたのですな!

戦国末期を物語る古城の末

越中攻略の拠点として松倉城をおさえた上杉氏は、近辺の城を次々と手に入れ、富山城をも支配しました。しかし、上杉謙信が死去して、上杉家が跡取り問題で内乱状態(御館の乱)になると、北陸進出を目論む織田氏が攻めてきたがです。松倉城は織田軍との戦いに備えて大規模な改修を行ったがですけど、柴田勝家率いる織田軍の攻撃目標は、松倉城ではなく支城のひとつであった魚津城。織田軍40,000人に対し、上杉軍38,000人とも言われるこの戦いは、3か月に及び天正10年(1582)6月3日織田軍の手に落ちたがです(魚津城の戦い)。ところが総大将の柴田勝家の元に織田信長が明智光秀によって暗殺されたことが伝えられます(本能寺の変)。主君の死を知った織田軍は撤退し、一度は上杉軍が取り返しますが、最終的には越中平定を願う佐々成政が再度魚津城を攻め落とし、治めることになったがです。
魚津の拠点は松倉城から魚津城へと替わっていきました。松倉城のふもとにあった城下町も魚津城周辺に移り、だんだん衰退していったがです。江戸時代に入り、一国一城令が出されると、魚津城や高岡城なども廃城しました。
激動の戦国時代の舞台となった松倉城跡、現在では県定公園に指定され、ヤマザクラの名所としても人々に親しまれとるがです。

毎年5月の最終日曜日には「戦国のろしまつり」が開催され、大変にぎわうがですよ~!

田んぼにヤギの杜の文字が
さすがヤギの杜~

近くでこんな風景に出会うことができます。

【松倉城跡】
富山県魚津市鹿熊
アクセス あいの風とやま鉄道魚津駅より車で30分、北陸自動車道 魚津I.C.から車で25分
〈問合せ〉 魚津市教育委員会 生涯学習スポーツ TEL:0765-23-1045

(2012年12月22日)