入手困難な名刀
国宝「稲葉江」は郷義弘の作品の中でも最高傑作と言われとります。また、これと双璧をなすのが「富田江」で、同じく国宝に指定されとるがです。「江(ごう)」は「郷(ごう)」であり、ほかにも「桑名江」「松井江」「村雲江」「豊前江」「五月雨江」の5口が重要文化財になっとります。初期の作品には古い流派である大和伝(奈良)、山城伝(京都)の影響が見られますが、正宗に師事した後は相州伝(鎌倉)を基調として、上品で明るく冴えわたる作風で一際美しさを増しとるがです。刃文にも義弘の美的感覚が反映され、立山連峰の風景が描き出されているものもあるとか。義弘の刀は戦国時代の武将に好まれたがゆえに、秘蔵の宝刀としてそのほとんどは人目に触れる機会がなくなり、各地を転々とするうちに多くが焼失・逸失してしまったがです。明智光秀の愛刀剣と伝えられる「倶利伽羅江」も戦乱の世で行方不明になったものの一つ。数々の伝説を知るほどに、郷義弘がもっと長く生きていたら…と惜しまれるがです。
国宝作家をミュージカルに
郷義弘の刀には銘がありません。その理由には諸説あって、「売る目的で刀を作る鍛冶職ではなく、武士(あるいは貴族)だったから」「作った刀を献上することが多く、相手(高貴な人)に対して銘を入れる自己主張がはばかられたから」「自分の作った刀に絶対の自信を持っていて、見る人が見ればこれは郷義弘の作品だと確信されるに違いないと思っていたから」等々、様々な推測がされとるがです。
郷義弘が残した作品と断片的なエピソードからしかその人物像は想像できんがですけど、平成26年(2014)、この偉大な刀工を主人公にしたミュージカルが魚津で上演されたがです。制作にあたった北原俊郎さん(ハテナの街のコンサート代表)は、資料不足や様々な困難があり、一時は作品化をあきらめかけたそう。しかし根気強く取材を重ねられ、脚本、演出など一から全てを完成させ、みごと上演を果たされました。
顕彰碑
郷義弘の顕彰碑は松倉城址の本丸近くに建っとります。義弘の子孫で昭和60年(1985)に殉職された第26代康彦氏の遺志を継ぎ、平成4年(1992)に母上である郷ときさんと魚津市が合同で建立したものながです。正宗十哲(十人の秀でた弟子)で最後に建てられた顕彰碑であり、隣には日本刀をイメージしたモニュメントも造られたがです。
越中国がかつて刀剣の産地だったことや刀工郷義弘の存在を知る人はあまり多くないがですけど、最近は刀剣を擬人化したゲームが日本刀ブームに火をつけ、郷義弘への注目度も高まっとるがです。郷義弘が鎌倉から故郷へ戻り、松倉郷に住んだ期間はほんの数年。地元との交流はほぼ無く、詳しい記録や史料もないがですけど、国宝をはじめとする多くの名刀を作った場所はここ新川の松倉郷であることは間違いないがです。700年の時を経て、その類まれな才能は今でも人を引き付けています。
郷義弘に関するお話は、ハテナの街のコンサート代表で、魚津ふるさとミュージカル「郷義弘」を制作された北原俊郎さんに伺いました。どうもありがとうございました!
【参考文献】
富山県下新川郡役所『下新川郡史稿 下巻』(明治42年)
富山県青少年活動実践協議会『郷土に輝く人びと 第1集』(昭和43年)
魚津市史編纂委員会『魚津市史 上巻』(昭和43年)
玉川信明『富山の写真人物志』(昭和50年)
奥田淳爾・米原寛『越中の人物〈富山文庫11〉』(昭和53年)
富山新聞社『越中百家 下巻』(昭和56年)
野島好二『新川物語』(昭和57年)
月刊うおづ同人社『伝説うおづ』(昭和58年)
富山社会科教育研究会『富山県を築いた人びと』(昭和60年)
松倉振興会「十三の里(第13号)郷義弘特集」(平成5年)
奥田淳爾『図説 魚津・黒部・下新川の歴史』(平成12年)
ふるさと開発研究所「万華鏡218号 刀匠 郷義弘」(平成22年)
富山県教育委員会『ふるさととやまの人物ものがたり』(平成23年)
ハテナの街のコンサート「第9回魚津ふるさとミュージカル 郷義弘」(平成26年)
(2020年5月13日)