天下三作
郷義弘の生い立ちには謎が多く、推定生年1299(正安元)年~亡くなったとされる1325(正中2)年までの鎌倉時代を生きた武士であり、短い生涯の間に刀工として名を成し優れた作品をいくつも残しています。義弘の鍛えた刀には銘が刻まれてないがですけど、その気品の高さから他に紛れることはなく、豊臣秀吉をはじめとする戦国武将たちに愛用されたがです。江戸時代の『享保名物帳』では歴代の刀工の中でベスト3(天下三作)に数えられ、現代までその評価は不動のものとなっとるがです。
天下三作とは、相州正宗(1264〜1344推定)、粟田口吉光(1239〜1291推定)、郷義弘の三人の刀工を指します。正宗と吉光は刀鍛冶、つまり職業的刀工家であったのに対し、義弘は武士でした。義弘にとって作刀は余芸、しかも享年27(数え年)と、刀工としての時間は極めて短かったがですけど、生まれ持っての才能と人並み外れた努力によって、神がかり的な美しさを持つ名刀を生み出していったがです。
勤皇・倒幕の志士
郷義弘は越中国新川郡松倉郷(現在の魚津市)に住んでいました。松倉郷の城主だったと伝える文献もあるそうですが、詳細は分からんがです。鎌倉時代末期、治安が乱れ幕府が統治能力を失いつつあったとき、義弘は越中守護代井上俊清配下の武士であり、俊清とともにひそかに勤皇・倒幕の志を抱いて隠密裏に動いていたのではないか、とする説があります。
武士でありながら若くして全国的に知られる刀工となった郷義弘は、21歳のとき鎌倉に出て正宗に弟子入りしました。そこで作刀技術を磨くとともに、幕府の動向を探っとったがです。しかし、倒幕を目指す後醍醐天皇の画策が幕府の知るところとなり、天皇の側近は流刑・蟄居(正中の変、1324)とされ追手が全国に飛びました。越中松倉に帰っていた郷義弘は、主君俊清と正宗に累が及ばないように自害したのか、あるいは朝廷に近い武士として捕らえられ処刑されたのか…真実は謎のままながです。残された家族は菩提寺とともに松倉を逃れ、現在の黒部市に移り一介の鍛冶職となったがです。
稲村ヶ崎の伝説
郷義弘の没後、後醍醐天皇が各地で勢力を盛り返し、1333(元弘3)年、ついに新田義貞が鎌倉に攻め入ります。しかし、鎌倉は三方を山に囲まれ、前面は海に護られとる天然の要害やったがです。攻めあぐねた義貞は、海側から突入しようと稲村ヶ崎まで進軍したがですけど、切り立った崖に行く手を阻まれ、さらに沖には敵の船が待ち構え矢が飛んでくるため突破できんかったがです。『太平記』では、この時義貞が龍神に祈りを捧げて黄金拵の刀を海中に投じると、潮が引き船も遠くなったがで易々と海岸線を渡って攻め込み、見事幕府軍を打ち破ったと伝えられとるがです。
この鎌倉攻めのエピソードで海に投げ入れられた刀は、もしかしたら郷義弘が献上した護り刀だったかもしれんがです。郷義弘は天文学にも造詣が深く、潮の干満にも通じていたと考えられます。新田義貞に護り刀を送った折に鎌倉の海の引き潮の時刻を教え、義貞はそれをわきまえたうえで攻め入ったのだとしたら…これが事実であれば、郷義弘はすごい戦略家でもあったがです!