黒部川の源流は北アルプスの鷲羽岳にあり、全長は85キロメートル。そのうち80%は山岳地帯を流れとります。流域で人が住めるのは下流の部分だけで、宇奈月より上流は深い谷になっとって容易に人が入って行けんような険しさながです。日本有数の急流河川ながですけど、富山県内を流れる他の川も同じように急流ながで、地元ではそのことを意識してない人が殆どながです。
川は一気に富山湾まで流れ下り、その勢いは山を削って多くの土砂を運んどります。V字形に刻まれた「黒部峡谷」や土砂が堆積した「黒部川扇状地」は、黒部川のこの働きによってできたものながですよ。また、上流に降る雨や雪などがもたらす影響も見逃せません。降水量は年平均で約4000ミリもあり、この豊富な水量が大地を潤す反面、ひとたび大雨になると暴れ川に豹変する恐ろしさもあるがです。昭和44年(1969)8月には、集中豪雨によって大洪水となり大きな被害があったがです。
黒部川扇状地は約60度に開いた扇の形で、富山湾に張り出した扇端部の弧(カーブ)もきれいに見えるため「日本一美しい扇状地」と言われとるがです。扇頂部(扇の要にあたる部分)の愛本が、今でも谷が狭いまま残っとって、視覚的に分かりやすいがもポイント。普通は長い年月の間に谷が崩れて、開いていってしまうがだそうです。
愛本から下流では、150年ほど前まで洪水があるたび黒部川は気ままに川筋を変えとりました。幾筋にも分かれた川が山から土砂を運んで堆積させ、扇の形を作っていったがです。
現在は堤防が造られ、黒部川の流れはひとつに固定されとるがですけど、「本来の川の姿からすれば不自然なこと」と王生さんは言われます。けれど、人間が安心して暮らすためには川の流れをコントロールする必要があり、先人たちは氾濫に備えて様々な治水工事を行ってきたがです。
「黒部川」の名称がいつ頃から使われるようになったかは、諸説あってはっきり分からんがだそうです。その昔は、扇状地内に川が何本も流れていたので、「四十八ヶ瀬(しじゅうはちかせ)」とか「いろは川」と呼ばれとったそうです。「四十八」は非常に多いという意味で、鎌倉時代の『源平盛衰記』や室町時代の『義経記』にその記述が見られます。
王生さんのご出身は石川県で、地元には手取川という川があるそうです。「手を取り合って渡った」というところから付いた名前だそうで、流れのはやい大きな川の様子を表しています。「当時、黒部川が『四十八ヶ瀬』と呼ばれていたということは、それだけ他の川に比べて川筋が多かったということでしょう」と王生さん。洪水を繰り返し、山から大量の土砂を運んでくるために、なかなか流路が定まらなかった黒部川。「四十八ヶ瀬」という呼び方は、いくつもいくつも急流を渡らなければならなかった昔の人たちの大変さを物語っとるがです。