いまも続く黒部との繋がり
生地の人々は、北方領土の開拓に大きく貢献しました。歯舞群島の主要な島である多楽島(たらくとう)・志発島(しぼつとう)・勇留島(ゆりとう)・秋勇留島(あきゆりとう)・水晶島(すいしょうじま)などの島と色丹島には、生地出身の人達が数多く住んでいました。北方領土からの引き揚げ者は富山県全体で1,425人、そのうち生地出身者はなんと900人弱もいたとか!!
四十物さんに、当時の住民の名が記載された志発島の地図を見せていただきました。今も生地にある名字が驚くほどたくさん並んでいます。ちなみに彼らは昆布採りを生業とし、その稼ぎはひと夏で家が建つほど、とまで言われていたそうです・・・(@□@;;)
生地出身の四十物武助氏は羅臼の初代漁業協同組合長を務められ、同じく生地出身の川端さんという方は根室の名誉市民にまで選ばれました。黒部市は、根室市と姉妹都市を結んでいます。これまでの歴史をみれば、まさしく血の通った姉妹といえますね。
もちろん富山県と北海道の関係も親密です。四十物昆布店さんには、羅臼・利尻・根室・樺太・日高など北海道各地から昆布が届きます。実は富山県、一世帯あたりの昆布消費量が日本一!!(2013年は京都府が第1位)昆布でしっかり繋がっています。
生地の歴史を知るは、日本の未来を思念すること也
北海道や北方領土へ移住を勧めた人に、黒部市石田の宮崎広八郎氏と、生地の田村前名氏がおります。このうち、田村家の初代・是輝(これてる)は戦国武将・越前朝倉義景の家臣で、一乗谷が織田信長によって落城した際に主君の遺言により子の是法(これのり)と共に生地へと渡りました。この地で栄えた田村家は、江戸時代には境(現:朝日町)から西岩瀬(現:富山市)までの漁業・海運に関する支配・統括に関する一切を担う”浦方十村”を代々継いできました。
田村邸は、格式ある裕福な家の象徴である”卯建”(うだつ/防火の役目をした袖壁)が上がった建物です。そこから北前船をはじめ、生地の海を往来する船を監視していたのでしょう。階上に上がると大きな世界地図があり、庭園の見事な池には清水(しょうず)が湧き出しています。
四十物さんは、この田村邸を整備保存し、広めたいと強く考えておられます。YKKの産業観光、生地の清水、前名寺、そしてこの田村邸を巡るコースは立派な観光コースにもなります。これらを巡り、生地を拠点とした富山と北海道の深い繋がりをもっと広く知ってもらい、そして北方領土問題が自分の国の身近なものとして考えるきっかけになればと。
(2015年1月27日)