千年の時を越えて
黒部市三日市にある八心大市比古神社は、延長5年(927)に編集された「延喜式」の神名帳に登載されている「式内社」で、朝廷からも尊崇された由緒あるお社ながです。県内にある34社の式内社のうちの一つで、1000年以上の歴史があるがですよ。地元の人が八心大市比古神社のことを「三島さま」や「三島神社」と呼ぶのは、お祀りされている大山袛命(おおやまつみのみこと)のことを「三嶋大明神」とも言うことに由来するそうながです。また、三島さまがある三島町の地名は、八心大市比古神社の御祭神の名前がそのまま町名になったものと言い伝えられとるがです。
三島さまの由来は定かではありませんが、黒部市山あいの嘉例沢から光った槍のようなものが飛んできて、三日市の萱堂(かやんどう)に降り、それを土地の人々が祀ったところ、三体の神像が出てきたのが始まりといわれとります。戦国時代の永禄年間には兵火によって消失したがですけど、天正8年(1580)に萱堂から三島野に移され、現在のお社の本殿は昭和17年(1942)に完成したがです。
桜井の荘にちなんで桜井さん
大変歴史のある三島さまで代々神主を務めてこられたのが桜井さん。現在宮司を務める桜井都嘉佐(つかさ)さんに三島神社と三日市についてお話を伺ってきました。八心大市比古神社の社誌に宮司さんが初めて登場したのは慶長元年(1596)のこと。同年3月に宮司の阿部氏が三日市の一軒一軒を回って、無病息災・家内安全をお祈りしたことが記されています。桜井さんのご先祖様は、京の都で陰陽師をやっておられたそうで、三日市に来られた当初は阿部という姓を名乗っておられたがです。ですが、それから100年以上経った寛保4年(1744)、桜井の荘と呼ばれた三日市の繁栄と安泰を祈って、桜井と改名されたがです。桜井さんは宮司となられてから、三日市で初めて五穀豊穣をお祈りする秋の祭礼など、様々な祭祀を催し、三日市の氏子さんから大変親しまれてきたがですよ。
三日市は古くは「桜井の荘」と呼ばれていました。鎌倉時代の執権北条時頼が、全国行脚の旅に出た際の伝説を元に作られた能の一曲「鉢の木」に由来します。ある雪の夜、佐野(群馬県高崎市上佐野町)に住む老武士・佐野源左衛門尉常世の家に、旅の僧が一夜の宿を求めてきました。常世は僧に温まってもらおうと、大事にしていた鉢植えの梅・松・桜の木を切って焚き、貧しいながらも精一杯のおもてなしをしました。常世は、一族の横領により落ちぶれてはいるけど、大事が起こればいち早く鎌倉に駆け付け、命懸けで戦うつもりであることを僧に語りました。その後鎌倉から召集があり、常世も駆け付けると、あの時の僧が実は北条時頼だったことを知ります。時頼は常世に礼を言い、恩賞として、加賀(石川県)の梅田、上野(群馬県)の松井田、越中(富山県)の桜井を与えました。その中の桜井が黒部市三日市のあたりと伝えらています。昭和29年に桜井町と生地村が合併して黒部市が誕生すると、地名として「桜井」は使われなくなりましたが、桜井高校、桜井中学校など学校名として使われるほか、会社名としても多く使われ、「桜井」という名称は地元の人に大変親しまれています。