看板職人の世界
飛弾さんは中学を卒業後、絵が好きだったことから看板店に就職。親方に弟子入りして、最初はペンキ塗りや筆洗いなどの手伝いから始められたそうながです。ときどき看板の仕事もあったそうですが、メインの絵は親方や先輩がやり、飛弾さんは文字や背景などしかさせてもらえんかったがです。「絵の描き方は誰も教えてくれない。親方の仕事を横で見て、そのやり方を真似した。」仕事が終わってからデッサンの練習をして親方に見てもらい、「だいぶ上手くなってきたな、ちょっとやってみるか。」と言われたらチャンス☆ 「弟子は全部で30人くらいいたけど、その中でも絵が描けるレベルの人はほとんどいなかった。がんばれば描けるようになるかな、という人が半分くらい。自分は文字を書くのがあまり得意ではなくて、早く絵が描きたかった。」飛弾さんは努力を重ね、1年ほどで先輩と肩を並べるほどに腕を上げたものの、もっと上達するにはどうすればいいのか分からず、行き詰まりを感じる日々だったそうです。
名工との出会い
そんなとき、東京で映画看板を描いていた嶋田幸夫氏(入善町出身)と一緒に仕事をすることになったがです。映画看板といえば、精巧さや描くスピードなど、最高の技術が求められる看板業の花形。「当時、浅草とか銀座とかには、ものすごい看板がかかっていた。自分たちの描く絵とは全然違う。ケタ違いに上手で、初めはどうやって描いているかさえ、分からなかった。」飛弾さんは仕事を通じて一流の描き方を学び、その技を習得したがです。「このとき身につけた技術は、どこに行っても通用する。もし、あのとき先生に出会っていなかったら、今ここまで描けないと思う。」
ペンキは5色ほど、使う筆は2~3本で、どんな絵でも描けるようになった飛弾さん。「写実的に、写真のように描くというのが看板屋の技。世の中に絵を描く人は多いけど、職人としてこういう絵を描く人は、今ではほとんどいないねぇ。」とおっしゃいます。
仕事は早く美しく
飛弾さんは黒部、魚津などの看板屋さんで修業を積み、20代半ばで独立。「技術があれば、お客さんはついてくる。元の親方には申し訳なかったけど、映画館などのお得意さんは大方うちに注文をくれた。」お店にとっては、看板は客足を左右する大事なアイテム。どうせ頼むなら、上手な職人さんに描いてもらいたいというのが本音ながです。「毎日のように新しい看板を描いていた。大きいものは現場で描くから、作業中は見物の人だかりができたよ。」
もちろんお仕事ながで、絵の上手さだけじゃなくスピードも必要。「例えば人の顔なら、どんなに複雑でも、1時間以内に終わらせる。腕があっても、早く描けなかったら商売が成り立たない。決められた時間のなかで、いかに美しく仕上げられるかが大事。」
お客さんから注文があれば、どんな絵でも、どんな場所でも、寒くても暑くても、描かんなんがです。好きなことを仕事にするって、厳しい面もあるがでしょうけど、それでも飛弾さんは楽しかったそうです。