普段のお仕事を聞かせてください。
私のところは北洋漁業をやっていまして、以前は船が何隻もいたんですが、今は1隻だけです。親父が亡くなったのは昭和56年、そのときから(会社を)引き継いでやってきました。
昔の船は、マグロもやれて、1年中フル稼働していたんですが、今は、サンマだけです。
黒部のブランド品認定事業が始まったとき、「何かできないのか」と言われましたが、はて、うちは地元で魚を獲っていないから、地元に関係したものがありませんから、作れません、って言っていました。でも、昔、漁協の婦人部で作っていたイワシのぬか漬けというのを真似て、サンマでもいいんじゃないか、じゃ、やってみようかということになりました。
最初作ったものは、しょっぱくて食べられるものではありませんでした。改良していって、ちょうどいい塩加減にするには、何日置けばいいのかなど、試行錯誤しながらやった結果が、今の「恵比須サンマのぬか漬」です。
市姫:わたくしも食べました。おいしかったですぅ。
「北洋の館」を紹介してください。
ここは、元は「網仕立て」をする場所でした。今は流し網をやっていませんから、こういうふうに、皆さんに休んでいただく、まち歩きの休み処にしたわけです。訪れる人に、なんとなく昔を感じてもらう。隣には、船の位置測定計器などを並べています。漁船の漁師は何に苦労したか、というと、自分の位置を割り出すのに、ものすごく苦労した。そういうことで、位置測定の技術や機器の変遷をたどれるようになっています。
生地は、漁業開拓の発祥の地といえますが、その始まりは明治時代です。それまでは、港というのは、石田のような遠浅のところを言いました。ところが蒸気船が出てからは、今あるような深い港が必要になってきた。生地の浜は急に深くなっている、だから蒸気船を岸の近くまで着けることができて、そして人の乗り降りが簡単にできる。そういうことで、ここ生地が「海の駅」になるんですね。
うちは、北洋漁場の開拓者の末裔(まつえい)で、僕のおじいちゃんのときに、利尻に出稼ぎに行きました。そしてそこの漁場が終わったときに、川崎船といって、帆が1枚で、風のないときは艪(ろ)で漕いでいくような船で、利尻から樺太まで行きました。本格的に漁業を始めたのは、明治42年。もう100年になります。
船の上というのは、やっぱり違う世界ですね。大地が揺れる、というのは、人間が、普通の感覚ではおれないところです。そういうなかでフロンティアになる、開拓者になるということが、いかにすごいか、というのを感じます。
今は後継者がだんだん少なくなってきました。うちの船も、地元の方は、船頭だけです。船には16人乗っていますが、15人は気仙沼地域の人です。そういうことでは、漁業の歴史はだんだんなくなりつつある、ということになりますね。
市姫:不思議な機械がいっぱい見れるがですぅ。
松野さん:当時では、すごい金額だったんですよ。
市姫:姫のおもちゃ、いくつ買えますか?
太陽の守:・・・えぇ~・・・。
まちづくり活動にかかわるようになったきっかけは?
吉田忠裕社長(YKK)が、1997年に「黒部まちづくり協議会」をつくられて、あの方は、商工業、漁業、農業の3つが1つになって初めてまちづくりができる、だから入ってください、ということだったんです。
私どもは、漁業は関係ないでしょう、海が僕たちの活動の場だから、ということで何回もお断りしたんですが、熱心に誘われまして、じゃあ名前だけ、というので最初の会議に出席しました。いつも聞かない話がいろいろと聞けるものですから、つい、そういう人たちの中に入っていった、という感じです。
2002年に、釧路湿原のノロッコ電車に乗って、散策をする機会がありました。帰りに駅で老人の方と一緒になって、ここは素晴らしいですね、って言ったら、お前、何言ってるんだ、ここに町があったんだ、って。そしてよく見てみろ、あそこに桜もあったし、そっちに階段があるだろう、その奥に神社があるんだよ、と。やっぱりよく見ると神社がある。でも、桜はみんな枯れ木になっていて・・・。
みんなの町をつくろうという気持ちが、みんななくなっちゃうと、原野に返ってしまう。みんなの思いをきちっと持ってやっていかないと、町がなくなってしまう。まちづくりというのは、まさしくそういうものかなぁ、というふうに今は思っています。