生地のまち歩きについて教えてください。
1998年、黒部市観光協会が中心となって、黒部の観光についての議論が行われました。観光資源となる項目を集めて、それが適度に集まっているところが、この生地だったんです。
それで、生地を案内しろ、と言われて。そのとき、僕がいいと思うところを見せると、この人たちは勘違いするかもしれない。大変なことになってしまうかもしれない。だから、生地の一番悪いところを見せよう。ということで、実は、この裏通りとか、生地って、こんな昔のあばら家みたいなところもたくさんあるんだよ、というところをご案内したんです。でも、それが実にいい、という話になって、2001年からまち歩きが始まりました。
初年度は無理して人を集めてしまって、ま、次の年は誰も来ないよ、と言っていたら、次の年に3,000人、それからずっと右肩上がりです。去年(2008年)、9,600~9,700人で、今年は1万人を超す見込みです。
地元の方の反応はいかがですか。
ここに住んでいる人は、生地が観光地だとは誰も思っていません。初め、まち歩きの案内をしていると、奇異な目で見られたんですよ。ところが、2~3年すると、「ご苦労様です」っていう言葉に変わりました。
皆さん、何となく、この町にお客さんがいらっしゃるね、来てらっしゃるね、という感覚は持つようになっています。ただ、本当に観光地だとは誰も思ってない。そのために、何かおみやげ屋さんとか、食べもの屋さんとか、やろうという人はまだいらっしゃらないし、唯一やったのが、くろべ漁協ですね。
くろべ漁協の場合も、当時の荻野幸和市長さんの、後押しがあって。僕たちは漁業振興資金というので、お金を市役所の中に積んでいただいておったんです。でも、お金のままにしておいちゃダメだよ、何か形を変えないといけない、という叱咤激励があり、そして今のまち歩きが始まってですね。確かな感触、これは人に訴えかけるものがあるかもしれない。ということで、魚の駅をつくることにしたんです。
まち歩きガイドをやって、僕は住んでいるから、生地の町の良さというのはあんまり見えない、見えなかったんですね。でも、来られた方が、こんなところがいいね、あんなところがいいね、ということで、初めて気付かされた。意外と、そういう交流の中から、いろんなものが分かってくる。じゃ、自分たちがこの町に住んで、次にどういうことをすれば来られた方がもっと喜ばれるか、ということが、なんとなくわかってくるような気がしますね。
市姫:父上~、わたくしも歩きたいですぅ。
太陽の守:そうじゃの、わしもじゃ。
地元の魅力の再発見と言えば、くろワンがありますね。
黒部ワンコイン・フリーきっぷ(くろワン)は、初め、15も駅があるっていうのは、僕たち知らなかったんですね。数えたら15個ある。そして今度、実際に乗ってみると、駅が、宮崎駿のアニメに出てきそうなイメージで、どこからかトトロか猫バスか出てきそうな・・・。これはすごいね、と言って、今度はみんなに沿線のどこがいいか、というのを聞いて。そうしたら、石田や三日市でいろいろな歴史があることが分かってきた。くろワンをやる前は、佐野源左衛門のことなども、桜井の庄という名前が、謡曲「鉢の木」に残っている、なんて誰も思ってなかったわけです。
そういう歴史も、ワンコインの中で、初めて分かってくる。あるいは、下立(おりたて)の「黒部古道」も、下立から田籾に抜けて、そしてそれが、松倉城に行ったと。松倉城の間道(かんどう)、隠れた道だったんだよ、と。
嘉例沢(かれいさわ)なんかに行って、話を聞くとね、嘉例沢が表町、そして浦山が・・・「浦」、今はさんずいの「うら」ですけど、裏表の「うら」。昔はあばれ川は絶えずどこにでも流れていて、平野を歩くっていうことは危険すぎるんですね。で、川をいくつも渡ってかなきゃならない。そういう点では、山越えが一番、近道だったわけです。そういうところが、昔の本当の街道筋だったということが分かってきたんですね。
そういう歴史を積み重ねていくと、本当にそこは古い、「黒部古道」だったんだな、ということが分かってくる。戦国時代だったら、間道に使われていたものが、もっと古い時代では表通りだったんだよ、というところまで見えてきた。
宇奈月にも、電源開発の歴史がある。まち歩きをすることで、いろんなものが見えてくる。黒部全体が愛しい町に、だんだんなっていく。ワンコイン1つをとって、やることによってね。それがまちづくりの本髄だ、と思います。